服部智恵子の大学設立日記

どうやって大学をつくるか。ゼロからスタート大学設立同時進行日記

自分のことを棚にあげて、他人を批評・批判できないよ

自分の20代、30代を思い出すと。

どうしようもない社会人だったと、思う。

つけあがった仕事人だったと、思う。

自分を勘違いした職業人だったと、思う。

思い出しても恥ずかしい。消ゴムで消したい(笑)

だから、今の若い人を見て、悪くは言えないし、思えない。むしろ「まあ、私に比べれば‥‥」と本気で思う。

自己肥大は、若い時代の特権だ。いや、若くない人にも。

幾つになっても、若い人ではなくとも、その人にとっての“我が世の春”がきたら、自己肥大するのを、許したい。寛容に見つめたい。

私は、自分のことを棚にあげて、他の人を批評できないし、ましてや批難できない。

「国を変えたければ教育を変えろ」

「国を変えたければ、教育を変えろ」

何度か、聞いた言葉だ。

でも、たとえば日本は、そもそも国を変えたいなんて、思っていないかもしれない。

というのは乱暴だから、日本人の多くは、と言い換えよう。

言い換えるとこうなる。

日本人の多くは、そもそも国を変えたいなんて、思っていないかもしれない。

こんなによい国なのに、なぜ変えるのだ、とか。変えるというなんて、日本はそんなに悪い国なのか、と。

人や組織や国は、本当は、悪くなくとも、変わらなければならない。

時代が変わっているのだ。アップデートするには、変わる必要がある。

世界が変わっているのだ、取り残されないためには、変わらなければならない。

日本人も日本にいる人も、変わっているのだ。国民=人間ありての国だ、変わるべきである。

さて。ということで、私は、乳幼児教育から、変えます。

20年後、30年後、40年後、50年後が変わります。

その頃は、私達保育園が育てた人は、まだ、20代、30代、40代、50代。日本を変える世代のど真ん中にいます。

 

 

補助線を引く、数学以外の問題で補助線を引いて課題解決の糸口をさがす

「この問題に、補助線を引いてみよう。そしたら解決の糸口が見えてくるかもしれない」

などと、カッコいいことを、私の見かけはアホな夫が、時たま言う。その時だけは、格好いい。

ちなみに、この問題とは、算数や数学の問題ではない。社会課題や、組織内で起きた問題や法人の人事課題、とある人材の人間分析などだ。

さて、私は今、ここ数日、一人で、とある場所で寝転びながら、とある場所を歩きながら、とある電車に揺られながら、とある番組をながら視聴しながら、頭の中で、大きな課題に取り組んでいる。

で、行き詰まって、いや、迷路に入って、いや、見方を変えてみたくて、ふと「この問題に補助線を引いてみよう」と、思いついた。

だが、引こうとは思いついたが、どんな補助線をどこに引くのかは、思いつかない(笑)

仕方ない。まず。どこに、どんな補助線を引くかという問題・課題に、補助線を引くか?(笑)

多忙と多忙感は別物だが、疲労と疲労感は同じもの

最近私は、自分は“多忙だ、忙しい”思っている。

だが、実際は、特別に忙しくわけではない。特に最近は、ノートを見ても日程がうまっているわけではない。思っていることを何も達成していない。Todoはやらずに繰り越してばかりだ。

つまりは、多忙だと、感じているだけだ。そう思っているだけだ。

だから、ひと様から「お忙しいですね」などと言われると、何となく恐縮する。さらに、人から忙しいと言われて恐縮するのは、日本人の特徴だ、などと自分に言って、慰める。

とにかく、多忙と多忙感は違う(笑)

だが「疲れてるね」と言われるとムッとする。実は、そう言われてムッとするのは、本当に疲れているのだ。

疲れてなければ、心がささくれだったりしないし、ムッとしたりしない。受けとめられるし、受け流せる(笑)

疲労疲労だ。疲労感も疲労だ。

身体が疲れれば、心も疲れる。心が疲れれば、それは確かに疲労だ。

くわえて。疲労疲労感は、伝染する気がする。

だから、自分のためにも、周りのためにも、疲れたら休んだ方がよい。

同情する余地があれば許す、というのは有りなのか

たとえば。

悪さをした人がいて、その悪さの程度によって、許す許さないがあるのは、当然だろう。

刑法だって、その加害の程度によって量刑が決まる。

では。

悪さをして、それに同情の余地がある場合。これも、情状酌量などに影響する。

さて。

普通の、法律には引っ掛からない範囲というか分野での、悪さはどうだろう。

知らなかった、上の指示に従った、慣習なので気づかなかった、悪いこととは思っていなかった、本当に無知だった、担当者がやっていた、信頼していた秘書がやっていた、裏切られた、‥‥‥。 

これらは、本当だったら、同情の余地がある。でも、本当であって同情の余地があるといって、許されるのか。

疑問である。

「声」の選択が間違っている 二つ目の危機広報もズレた製薬会社

危機の広報というものがある。

(ちなみに、これでも私は日本広報学会という学術団体の一員だ)

広報とは、コミュニケーションであり、一般的に思われている”一方的な宣伝”ではない。

で、危機の広報とは、企業が不祥事を起こしたときとか、事故があったとか、そんな時の広報だ。

冒頭に謝罪をする記者会見などは、そのひとつだ。

最近起こった、薬品会社の記者会見を見たとき「ああ、この人たち、危機の重大さを分かっていない。責任をとるのが怖いのか」と思った。

そして今日テレビで、そのサプリの製品回収のお知らせを見た。

「声の選択が間違っている」「読ませ方が間違っている」と思った。

逃げの姿勢は、最初の広報を間違わせ、次の広報もズレさせる。

「冷徹なほどに優しい」沖縄中小企業同友会の会合で聞いた言葉から

「社長が、心底、優しくないと、会社はつぶれる」

「だが、組織のトップが、心底優しいというのは、見かけはかなり冷徹だ」

昨日、沖縄中小企業同友会のとある幹部養成の研修会の修了式に参加した。

約半年の研修会に参加したのは職員6人だ。私はその、自分が送り出した送り出した職員の保護者(笑)、引率者として、修了式のみに参加した。

で、多数の会社のトップ層が、同じように、見守る引率者として、修了式と懇親会に参加していた。

その中で出た格言(?)とテーマである。

「社長は優しくないとならない、だが、その判断・決断は冷徹なほど、的確なものでなければならない」ということか。

優しいとは何だという、定義問題にまで遡ると、ややこしいので、やめる。