中国古典の一文は、その文化のうちにある、偉人や哲人、英雄や宗教家のあらわす文の、至るところに表れる。
初めて、鎌倉時代の日蓮の文に、これを見つけた時、深い意味までは分からなかった。
その後、偶然に出典を辿ったり、他の哲人の表現に出くわしたりして、思った。
そうか、偉人達の解釈、その経験の深さ、時代への転換、そして覚悟によって、違うのだ。
ましてや、読み手である自分、受け取り方、自分の経験と人生によって、どんな一文も、変わってしまう、と。
この言葉。おそらく、私の人生で3度目の、解釈の転換、受け取りの変換である。