服部智恵子の大学設立日記

どうやって大学をつくるか。ゼロからスタート大学設立同時進行日記

言語だけがコミュニケーションの方法か

息子がまだ二歳の時の、香港のマクドナルドでの出来事である。

店内に子どもが遊べる小さなメリーゴーランドのようなものがあった。回る台の近くにあるスイッチを、自分達で押して動かす方式だ。

回転が停まると、誰かがスイッチを押す。すると、数秒後に再び動き出す。

そこで、息子と、五歳くらいの香港の男の子とインド人姉妹とおそらくフランス語の子どもが、遊んでいた。
親たちは、周りか近くの席で、マックを食しながら休憩していた。

息子を始め、彼らは恐らくそれぞれの言語さえ、拙いか、まだまともに喋れないはずだ。

それなのに回転が停まると「君がスイッチに一番近いだろう。君が押せよ」「あ、押したら速くもどれ」「あ、今度は私の番だね」などと、明らかに、コミュニケーションをとり、ルールを確立し、そして遊んでいた。

このあとも、何回かの海外旅行で、私は同様な光景を見ることになる。
シンガポールのプールで、ドイツの男の子とボール遊びをする息子とか。マレーシアのバス停で、子ども同士で私の親はあっちよと教えあっている姿とか。

言語は確かにコミュニケーションの重要なツールである。
しかし、言葉が通じなくとも、子どもはこうして、平気で遊んだり、意思を通じあわせたり、目的を達成したりする。

グローバルとは何か、国際性とは何かを、考えさせる経験である。