服部智恵子の大学設立日記

どうやって大学をつくるか。ゼロからスタート大学設立同時進行日記

暴論・そろそろ日本は「戦争」「終戦」「平和」の定義を変えようよ

8月15日の終戦記念日になると、必ず出てくるテレビ番組。または、各地と平和や戦争の記念館等が発信する主張。そこで、よく出てくる言葉。

「戦争体験者がどんどん減っていく「戦争体験が風化していく」「若い人は、戦争を知らない」「8.15が何の日か知らない人が多くなっている」

待ってください。

ベトナムに向けて、沖縄嘉手納から爆撃機が飛んでいったのを、下から見上げたことがある人間として、主張したい。

確かに、多くの日本人は大平洋戦争を忘れているし、当事者は減っている。

だけど。戦争や平和というものに、狭い視野で拘っていませんか。

このグローバル時代に、日本の、その本土の、その敗戦の日だけが、戦争についての記憶・記録すべき日ですか。

記念館や平和館は、そろそろ戦争や敗戦や戦争終結の「定義」を変えるべきではないですか。

第一、日本の一部である沖縄の終戦は6月23日だし。中国や韓国・北朝鮮にとっては、支配国日本から解放された「復光節」だし。

40年前でもベトナム戦争があったし、沖縄からそこに爆撃機が飛んでいったし。20年前でもアフリカ大陸では、戦争は起こっているし。そして、今でもウクライナでは戦争してるし。

そんな中で。このグローバルな時代、地球が一つの時代に。日本本土の戦争反対や平和主張は、素晴らしいが、狭すぎるし、自国の体験だけに拘りすぎる。

もう「戦争」や「戦争記念日」や「平和記念館」の定義を変えたらどうてすか。

日本本土の戦争や終戦だけに、縛られず。日本本土の不戦や平和だけに、限界せず。日本本土の記憶や記録だけに、こだわらず。

「戦争はまだ続いていた」んだよ。

戦争の定義を変えようよ。不戦の定義を変えようよ。平和を再定義しようよ。

それが日本が世界に貢献する、貢献できる、平和主張、反戦主張、不戦の願いだと思う。

爆撃機を見上げて育った人間の、暴論でした。