これでもかつて、中国語通訳だった。翻訳や、同時通訳や。
21歳の留学から始めた中国語で、バイリンガルでもなく、それで通訳になったのだ。どんなに努力しても、通訳の実力なんて、知れている。
おまけに「沖縄育ち、常識知らずの山猿」だ。ちなみに、ここで自分のことをそう書くのは、本当に、そう言われたからである。
だが、私の師匠は、ある中国の著名人との会食の大会場の末端テーブルに、通訳として私を呼んだ。通訳者3年目。
どのテーブルにも、一人の通訳が付く。実力の順番だ。実は私のテーブルには、中国客人は無く、会食に同席を許されて顔を紅潮させた青年たちだった。
ところが、何が起きたのか。会食の途中で、急遽、私は一番テーブルに呼ばれて、通訳をした。
中華テーブルの向こう側で、師匠が中国要人と会話をしている。それを筆頭通訳が訳している。
私は、テーブルの反対側こちら、2番目に偉い人と2番目に偉い中国客人の、通訳をした。
必死に右の話を聞いて左に通訳をして、左の話しを右に訳して。
と、顔を上げたとき、テーブルの向こうで、師匠が鋭い目で私を見ている。
怖かった。恐かった。畏れを感じた。それほど、鋭い瞳だった。
通訳する度に、顔を上げる度に、眼光鋭い師匠が、こちらを見ている。奥底まで、見透かされる、そんな瞳だった。
あの日から、私の通訳人生は変わった。人生も変わった。
今でも、何度も、思い返す。
あの時、通訳としては最低の、社会人としても成っていない、学歴もない、沖縄育ちの山猿を、師匠はどうして起用したのだろう。
私は、師匠が望むような人間になっただろうか。師匠は、今の私を喜んでくれるだろうか。師匠の成した何分の一でも、私は達成できるだろうか。
「センチメンタルは悪である」とは師匠の言葉だ。だから、私はセンチメンタルにならずに、師匠の教えを実践、実現していくつもりで、記憶を振りかえり、決意する。