服部智恵子の大学設立日記

どうやって大学をつくるか。ゼロからスタート大学設立同時進行日記

法人とか会社は、創ったらもう公器だ

法人をつくって、そして保育園をつくって以来、度々言われることがある。

「息子さんに継がすのですか」「○○(甥姪または資金支援者の師弟の名前)さんが、継ぐんですか」

びっくりするし、呆れもする。何でそう思う?

某公共的な資金融資機関の面接でも「さて、ガバナンスの問題ですが、貴女に万が一のことがあったら、息子さんが三園を継いでくれる確証はありますか」ときた。

即座に「有りません。息子は関係ないです」「保育園グループの次の理事長は、理事会で選んでもらいます」と断言した。

会社でも、保育園でも私立学校でも、法人は、設立されたら、社会の公器である。

代々、一族が理事長を務めるとか、バカバカしい。会社でも、創業者一族が社長を務めるというのは、あるだろうが、株式割合とか、様々な状況と条件があるからだろ。

江戸時代じゃあるまいし。

もちろん、議員でもそうだ。議員で世襲は、あり得ない。やってはいけない。

2世にも職業選択の自由があるというなら、やるなら、他の選挙区から出るべきだ。

社会の公器に、世襲はいらない。

もしも、この会社が、この選挙区が、社会の公器ではないないと信じるなら「これは、我が家のものです、我が一族の会社です、我が一族の選挙区です」「この会社は、この選挙区は、我が一族のものです」と宣言して、堂々と継いでください。

そこから逃げ出すことと、問題から逃げることは違う

問題から逃げると、結局は、その問題に追いかけられる。問題から逃げ切れない。

たしかに。だけど。

その場から逃げ出すことと、問題から逃げる事とは、違う。

絶対に、そこから逃げ出した方がよい、ということがある。

振りきって、避けて、逃げ切って。逃げ切ることが、問題解決になる、ということがある。

問題は相手であって、自分ではない。そんなとき。問題はその場であっても、自分ではない。そんな所。

たとえば、暴力夫。たとえば、サイコパス友人。たとえば、ブラック職場。

あなたが傷つけられるのは、あなたが悪いのではない。あっちが悪いのだ。

あなたがメンタルダウンするのは、あなたが原因ではない。その場所が原因なのだ。

あなたが恐がるのは、あなたが弱いからでない。そこが悪なのだ。

逃げなさい。避けなさい。振りきりなさい。

そこから、遠く、離れていきなさい。

人は自分の器の分しか、人を理解できない

とあることがあって。‥‥。

‥まあ、最近は毎回“とあること”があるけどね(笑)

とにかく、とあることがあって、つくづく思った。

人は、自分の器の大きさ、深さ、広さの分だけしか、他人を理解できない。

人は、自身の経験の質と量の分しか、人を理解できない。

だから、同じことがあって、誰か同じ人のことが話題になっても、それぞれ評価も理解も解釈も、違ってくる。

同じ人の同じ行動を、別の人は別々の言葉で、評することになる。

この前も、私を含めた四人の女性が、同じ人のことを言っているのか、と思うほどの人物評が飛び交った。

お金で考え込むと「黒いオーラがありますよ」って、沖縄人はみんなユタですか(笑)

私も昔からよく、誰かから、言われた。

「あなたは巫女ですか」「沖縄でユタ~って言いますが、貴女もそのうですね」

カンが働いて、それを思わず口に出すと、どうやら的確らしくて、相手の顔色が変わることが、よくあった。

どうやら私は巫女さんらしい(笑)と、何度思ったことか(*≧∀≦*)

でも、最近。

沖縄の人間は、男だろうが女だろうが、やたら、それっぽい人が多いことに気がついた。

私が、資金調達で考え込んだり、資金繰りを考えたりしているときに、「代表、黒いオーラが漂ってますよ」という職員がいる。

時たま「あ、今日はオーラが白いですね。お金の問題、好転したんですね」とも言う。恐ろしい(笑) 

また、とある別の職員は「‥‥‥」。‥‥‥。やめておこう。(笑)

とにかく、みんな、何かしら、カミガカッている。(爆笑)

「誰が一番傷ついているかは競えない」はずだが実践は難しい

「誰が一番傷ついているかは競えない。どの傷も絶対的に扱われる必要がある」

これは、ものすごく優しく豊かな人間理解だ。だけど、なかなか出来ない。

かつてカウンセリングを学んだとき、またコーチングを学んだとき最終的には「ああ、私はプロにはなれい」と思ったことがある。

傾聴や、カウンセリングやコーチングは、自分を捨てきれないと出来ない。または、自分を一旦横に置くことをしないと出来ない。そう思う。

プロは、そのトレーニングを経て出来るようになるだろうが、私はプロにはなれない、と思ったものだ。

だが、いま、自分でつくった。組織のトップをしていて、そのコーチングやカウンセリングで学んだことは、活きている。

少なくとも、相手の言い分を聞く時だけは、自分の感情や経験や思想を軸としないように、している。

仏典に「心の師とはなるとも、心を師とするなかれ」とあるが、それって、これに似ているかなぁ。分からない。

人材・人財としての格と桁が違って、今の私では採用できない

先日、ある方の面接をした。

本来は、保育園の用務と事務をする人を、求めての紹介であり面接であった。

話し始めて数分で、これは、そんな役回りの人ではない、ミスマッチだ、と感じた。

凄すぎるのである。

人材・人財としての、格と桁が違うのだ。

2時間の面談は、採用面接というより、“創発”的会談だった。

終わって感じたのは。

ほんとに、この人の席を準備できるほどの法人でないことが、悔しかった。

この人を採用できるほどの、力がいまだない法人であることが、哀しい。

帰りながら、同席した副代表つまり夫に、「大学設立、という段階になったら、絶対に必要な人だ」「早く、あの人を採用できる大きさと構造の法人にする」と誓った。

 

達成や成功や勝利のあとに起きる“万能感”のこわさ

達成感というのは、それは素晴らしい感覚だ。

苦難をのりこえ、努力を続け、そして達成したものだけが獲得する感覚だ。充分に味わうべきだ。

何かに成功したときに、味わう歓喜、とても重要だ。それまでの艱難辛苦を経たからこそ成功するのだから、その歓喜に浸るのは、成功の報酬の一部だ。

勝利の喜び、圧倒的勝利の歓喜。これも、勝者に与えられる特権だ。勝つまで闘った、怯まなかった、おじけずかなかった、その凄まじい努力への褒美だ。

だが、魔は天界に住む、という。その歓喜に強すぎたり長かったりすると、人はふと“万能感”に満たされる。

自分は何でもできる、という感覚。自分は正しい、という過ぎた感覚。自分は~があるという、強すぎる感覚。

この“万能感”は、危ない。非常に危ない。

私は、若い頃、何度それで失敗したことか。愚かな頃、何度、それで自分に自分の足をすくわれたことか。

今なら分かる。他人を見ていて分かる。私より若い人を見ていて分かる。

時には、グループやチームで、そういう共同でその感覚になることがある。

指摘すべきか。私はその立場にあるか。本当に忠告するほどの状態か。

私の“老婆心”が、疼く。