服部智恵子の大学設立日記

どうやって大学をつくるか。ゼロからスタート大学設立同時進行日記

この凄まじさに耐えきれるのは私だけだと言い聞かせて乗り切った日々

職員の一人から、とあるメールが来た。

そのmailに答えるためには、この7年間、特にこの5年の、起業と4つの保育園設置のことについて、シンプルに言及する必要があった。

返信は長くなった。だが、記憶とその整理と総括は、数倍の時間がかかった。

思い出す。

誰かが、分かる、わかる、というが、分かるわけない。私しか分からない。

起業して一年は一人でやった。2年目は数名の理事がいたが、やるのは私だ。3年目に、一つ目と2つ目の保育園を開園した。

制度探し。物件探し。資金計画。資金調達。土建屋とのやり取り。行政とのやり取り。長い申請。建設。資金繰り。人探し。人材逃しに人財探し。やめていく初期の人材。資金繰り。三園目と、四園めで、同じことのくりかえし。運営しながらの新園設置。地主とのやり取り。各関係者への説明会。入札。土建屋との丁々発止。怒号を浴びせられる時。職員から一斉に責められるとき。某所から呼び出しを受ける時。大事な人から非難され辞められたとき。‥‥。

あの頃に私が聞きつづけた、私のテーマソング冬の花の1節は「私が負けるわけがない」。

もしも、私に大学を創るという夢がなければ、終わっていただろう。耐えきれなかっただろう。

この凄まじさに耐えられるのは、私だけだ。沖縄に大学を創る私がこれしき耐えきれなくて、どうやって大学ができる。

そう言い聞かせて、乗り切った。

今では、懐かしい。