服部智恵子の大学設立日記

どうやって大学をつくるか。ゼロからスタート大学設立同時進行日記

多忙と多忙感は別物だが、疲労と疲労感は同じもの

最近私は、自分は“多忙だ、忙しい”思っている。

だが、実際は、特別に忙しくわけではない。特に最近は、ノートを見ても日程がうまっているわけではない。思っていることを何も達成していない。Todoはやらずに繰り越してばかりだ。

つまりは、多忙だと、感じているだけだ。そう思っているだけだ。

だから、ひと様から「お忙しいですね」などと言われると、何となく恐縮する。さらに、人から忙しいと言われて恐縮するのは、日本人の特徴だ、などと自分に言って、慰める。

とにかく、多忙と多忙感は違う(笑)

だが「疲れてるね」と言われるとムッとする。実は、そう言われてムッとするのは、本当に疲れているのだ。

疲れてなければ、心がささくれだったりしないし、ムッとしたりしない。受けとめられるし、受け流せる(笑)

疲労疲労だ。疲労感も疲労だ。

身体が疲れれば、心も疲れる。心が疲れれば、それは確かに疲労だ。

くわえて。疲労疲労感は、伝染する気がする。

だから、自分のためにも、周りのためにも、疲れたら休んだ方がよい。

同情する余地があれば許す、というのは有りなのか

たとえば。

悪さをした人がいて、その悪さの程度によって、許す許さないがあるのは、当然だろう。

刑法だって、その加害の程度によって量刑が決まる。

では。

悪さをして、それに同情の余地がある場合。これも、情状酌量などに影響する。

さて。

普通の、法律には引っ掛からない範囲というか分野での、悪さはどうだろう。

知らなかった、上の指示に従った、慣習なので気づかなかった、悪いこととは思っていなかった、本当に無知だった、担当者がやっていた、信頼していた秘書がやっていた、裏切られた、‥‥‥。 

これらは、本当だったら、同情の余地がある。でも、本当であって同情の余地があるといって、許されるのか。

疑問である。

「声」の選択が間違っている 二つ目の危機広報もズレた製薬会社

危機の広報というものがある。

(ちなみに、これでも私は日本広報学会という学術団体の一員だ)

広報とは、コミュニケーションであり、一般的に思われている”一方的な宣伝”ではない。

で、危機の広報とは、企業が不祥事を起こしたときとか、事故があったとか、そんな時の広報だ。

冒頭に謝罪をする記者会見などは、そのひとつだ。

最近起こった、薬品会社の記者会見を見たとき「ああ、この人たち、危機の重大さを分かっていない。責任をとるのが怖いのか」と思った。

そして今日テレビで、そのサプリの製品回収のお知らせを見た。

「声の選択が間違っている」「読ませ方が間違っている」と思った。

逃げの姿勢は、最初の広報を間違わせ、次の広報もズレさせる。

「冷徹なほどに優しい」沖縄中小企業同友会の会合で聞いた言葉から

「社長が、心底、優しくないと、会社はつぶれる」

「だが、組織のトップが、心底優しいというのは、見かけはかなり冷徹だ」

昨日、沖縄中小企業同友会のとある幹部養成の研修会の修了式に参加した。

約半年の研修会に参加したのは職員6人だ。私はその、自分が送り出した送り出した職員の保護者(笑)、引率者として、修了式のみに参加した。

で、多数の会社のトップ層が、同じように、見守る引率者として、修了式と懇親会に参加していた。

その中で出た格言(?)とテーマである。

「社長は優しくないとならない、だが、その判断・決断は冷徹なほど、的確なものでなければならない」ということか。

優しいとは何だという、定義問題にまで遡ると、ややこしいので、やめる。

法人とか会社は、創ったらもう公器だ

法人をつくって、そして保育園をつくって以来、度々言われることがある。

「息子さんに継がすのですか」「○○(甥姪または資金支援者の師弟の名前)さんが、継ぐんですか」

びっくりするし、呆れもする。何でそう思う?

某公共的な資金融資機関の面接でも「さて、ガバナンスの問題ですが、貴女に万が一のことがあったら、息子さんが三園を継いでくれる確証はありますか」ときた。

即座に「有りません。息子は関係ないです」「保育園グループの次の理事長は、理事会で選んでもらいます」と断言した。

会社でも、保育園でも私立学校でも、法人は、設立されたら、社会の公器である。

代々、一族が理事長を務めるとか、バカバカしい。会社でも、創業者一族が社長を務めるというのは、あるだろうが、株式割合とか、様々な状況と条件があるからだろ。

江戸時代じゃあるまいし。

もちろん、議員でもそうだ。議員で世襲は、あり得ない。やってはいけない。

2世にも職業選択の自由があるというなら、やるなら、他の選挙区から出るべきだ。

社会の公器に、世襲はいらない。

もしも、この会社が、この選挙区が、社会の公器ではないないと信じるなら「これは、我が家のものです、我が一族の会社です、我が一族の選挙区です」「この会社は、この選挙区は、我が一族のものです」と宣言して、堂々と継いでください。

そこから逃げ出すことと、問題から逃げることは違う

問題から逃げると、結局は、その問題に追いかけられる。問題から逃げ切れない。

たしかに。だけど。

その場から逃げ出すことと、問題から逃げる事とは、違う。

絶対に、そこから逃げ出した方がよい、ということがある。

振りきって、避けて、逃げ切って。逃げ切ることが、問題解決になる、ということがある。

問題は相手であって、自分ではない。そんなとき。問題はその場であっても、自分ではない。そんな所。

たとえば、暴力夫。たとえば、サイコパス友人。たとえば、ブラック職場。

あなたが傷つけられるのは、あなたが悪いのではない。あっちが悪いのだ。

あなたがメンタルダウンするのは、あなたが原因ではない。その場所が原因なのだ。

あなたが恐がるのは、あなたが弱いからでない。そこが悪なのだ。

逃げなさい。避けなさい。振りきりなさい。

そこから、遠く、離れていきなさい。

人は自分の器の分しか、人を理解できない

とあることがあって。‥‥。

‥まあ、最近は毎回“とあること”があるけどね(笑)

とにかく、とあることがあって、つくづく思った。

人は、自分の器の大きさ、深さ、広さの分だけしか、他人を理解できない。

人は、自身の経験の質と量の分しか、人を理解できない。

だから、同じことがあって、誰か同じ人のことが話題になっても、それぞれ評価も理解も解釈も、違ってくる。

同じ人の同じ行動を、別の人は別々の言葉で、評することになる。

この前も、私を含めた四人の女性が、同じ人のことを言っているのか、と思うほどの人物評が飛び交った。