人の心にある偏見や先入観、迷いや疑い、諦めや弱音、そして臆病を、たとえば「魔」「悪魔」と例えてみよう。
いつもは的確な判断をする人が、どうしたことか愚かなことをする。そのとき、よく“魔がさした”とか“一瞬魔が入った”と表現する。
心に黒いところなど全くない人なのに、僅かなことから疑心暗鬼になることがある。そしてその上に物事を見るので、ことごとく批判的に見てしまう。“魔が入った”としか思えない。
疲れが貯まると正常な判断が出来なくなり、その人にあるまじき判断をすることがある。魔が入り込んだか、と思う。
魔は、誰の心にでも忍び込む。誰の命にも入り込む。
普段のその人でないことをする。いつものその人ではやらないことをやってしまう。
「祈りが心に満ち満ちているところ、いかなる臆病も、諦めも、弱音も、入り込む隙間などありません」とは、哲人の言葉。
私はいま、こう決めている。
この保育園のどこにも魔を付け入れさせない。この保育園の誰にも、魔を付け入れさせない。もちろん私にも。と。